光る憂鬱のルーツ
なりたかったもの
あこがれていること
そして過去のわたしと
今のわたし
ずっと、もっと昔。わたしは、わたしを、今よりも信じていた。 それはそれは盲目的に。 けれど、現実世界でメルヘンなことばは、自虐的で、過剰で、 到底受け入れられるものではないと鼻で笑われ、 それでもあの時何も感じなければ、 あのまま、憧れをつきすすめたかも。 でも、もう戻れない。 気づいてしまったからだ。 わたしはわたしをなぐさめるために、酔えるようなことばを紡いで 自慰をくりかえしていたこと。
時は流れ。
一周まわって、やっぱり好きなものは好きだと、今は思う。
論理的で、非の打ち所がないやり方も、 世界をあっと言わせるようなやり方も、 誰も傷つけないあいまいな表し方も、 シンプルさも、毒も、パステルも、 わたしは好きで、 どれにも決してたどり着かない。 空しさや、切なさが、 滑稽に見えるでしょ? きっと彼らには。 だけど、ここに戻ってきてしまう。 わたしはキラキラした憂鬱の中、 人魚みたいに消えていく 泡沫を愛しているのだ。
*
先日知人に会ったとき、アクセサリーを作っていると言って名刺を渡したら、
「キラキラ・・メランコリン?w」とちょっと嘲笑された。
kirakira*melancholinは昔わたしが使っていたラジオネームをもじったものだ。
中学高校とわたしはラジオが大好きでいつも深夜まで良く聞いていたし、投稿もしていた。
そのときは「キラキラメランコリー」という名前だった。
その話を昔、職場でした時も、先日の知人と同じようなリアクションをされた。
そっか。人は、この言葉をダサいと思っているんだな。
薄々前からわかってはいたけれど、わたしはとても気に入っているので、
やっぱりこの名前にして良かったな、と思っている。
キラキラメランコリーのままでも良かったけれど、
たまたま語尾が似ていたのもあって、自分の今の苗字をつけたした。
大人になった今だからこそ、あの頃を振り返って表現できるものがあるんじゃないかと。
わたしはいつも憂鬱だった。それは思春期特有のものだと思っていた。
多くの人が同じような経験をしていることを知った。
けれど、ひとつ違ったのは、その多くの人は大人になると、
そのとき感じたものとはちがう種類の憂鬱に苛まれながら生きているということだった。
わたしは、立ち止まったままのような気がする。
体だけがどんどん先に行って、
心はキラキラ光っているあの頃の憂鬱を物憂げに見つめている。
どんどん置いていかれて、遠くなっていく森羅万象。
大人として生きていかなきゃならないのなら、せめて小さな世界に
鼻で笑われるような思い出や感情を閉じ込めさせてほしかったの。
だからこの名前に、したんだよ。
人から見て少しダサいくらいが、わたしにはちょうど良いって思ってる。
でも、それを言い訳に、逃げないでおこう。
へらへらして「そうだよね」って同意するでもなく、
怒ったり、悔しがったり、悲しんだりせず、
「わたしはとっても気に入っているよ」って笑っていたい。
だって好きなんだもの、仕方がないわよね。
何に対しても、そういう自分であれたらいい。
そして、それが認め合うことだったらいいなと、ぼんやり思っている。