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緩やかに過ぎ去るのを待つ

時々、青空に責められている気がする。

こんなにも気持ちの良い日に、あなたはどうして

この風に触れようとしないのか。

そのドアを開けて、自分の足で季節を感じようとしないのか。

ただ窓の外を眺めては、動けない自分を責め、

悲しみ、その時間に何の意味があるのか、と。

その何気ない日常のひとこまですら、

自分そのものを切り取られているようで、苦しい。

元気に見えても、そんなものは人を創るひとつの要素でしかない。

それでも、どこかで自分を偽らないと生きていけない気もする。

そうやって、皆が毎日と戦っているんじゃないかと。

雨は苦手だけれど、いっそのこと雨が降ってくれたら

どんなに楽だろう。雨の音に包まれて眠りたい。

いつも不定期にやってくる波のようなものは、

いつしかわたしの中で、「腹痛」と同じになった。

少々汚い話になるかもしれないが、続ける。

どれだけあがいても、膿を出してしまうまで痛みは続く。

小さな箱の中でわたしは動けない。

時々意識を失いそうな激しい痛みにひたすら耐えて、

疲れて眠ることができれば、

また何もなかったように生きられるのだ。

もちろん、食生活や投薬など、日々の諸々に改善の余地はあるのかもしれない。

けれど、一生腹痛が起きない人生を送っている人がいないように、

完璧にこの「波」をなくしてしまうことは出来ないような気がしている。

わたしは心の消化能力が低い。

だから、痛くなってしまったなら、「痛い痛い」と悶えながら、

治まるまでじっと待つしかないのだ。

今日、ほぼ日の今日のダーリンにこんな一節があった。

「なにを言ったからよい、とか

 なにができたからよい、なにをしたからよい、

 というようなこととなんの関係もなく、

 「ただいること」がよいとされることを、

 ほんとうは誰もが望んでいる。

 be動詞の、beの状態で肯定されること。

 それが、誰よりもじぶん自身からよしとされること。」

本当の意味は違うかもしれないけれど、

最後の一説が

「誰に認められるよりも、じぶんがまず認めてあげること」

というように今のわたしには読めた。

人間として誇れる生き方をしていないわたしを、

大切な人たちはずっと受け止めてくれてきた。

それだけで恵まれていて、幸せなはずなのに、

わたしは時々、波に飲まれてわからなくなってしまう。

淋しいときは誰かに認めてもらいたいものだけれど、

それは自分がちゃんと自分を認めた前提で成り立つものであって、

例えれば、穴のあいた桶にいくら水を注いでも一向にたまらないのと一緒。

まずは穴を自分で修復しなければならないのだな。

何年も、いや、もう十年以上、

わたしはその穴のふさぎ方を知らない。

付け焼刃でごまかしてきたものの、すぐ綻んでしまう。

それでも、いくつかの約束だけは、守る。

大切な人たちとの約束。

かっこ悪くても、初歩的でも、仕方がない。

理由なき痛みは、いずれ緩やかに下降する。

わたしはそれをもう、知っている。

だから、ここで、過ぎ去るのをただ

泣きながら待っている。

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